「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれた唯一の日本人 ~ 北斎の情熱

天才達が考えたこと
この記事は約9分で読めます。

今回の記事は、東京都墨田区にある「すみだ北斎美術館」を訪問した際の訪問記である。

すみだ北斎美術館」は、浮世絵冨嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい」で有名な「葛飾北斎かつしかほくさい」に関する作品と情報の発信を目的として2016年に開館した。

その外観は、とても浮世絵が展示してある美術館とは思えないような斬新なもので、知らなければ近代美術館か何かと間違えてしまう。

筆者は北斎のことも、浮世絵のこともほとんど知識がないまま、今回この美術館を訪れた。

見学をした日は、企画展がちょうど次の企画展の準備でclosedだったため、常設展の展示を主に拝見した。こちらの常設展では、北斎が活躍した年代ごとに時代を区分し、その代表的な作品が展示されている。

この記事では筆者が特に印象に残った北斎の作品やエピソードについてご紹介する。

¥1,500 (2024/12/18 20:12時点 | Amazon調べ)

「北斎」誕生から読本挿絵を手掛けた時代

まずは、北斎誕生から読本よみほん挿絵を手掛けた40代後半頃までの時代について触れる。

葛飾北斎、日本人なら誰でも知っている江戸時代の絵師であるが、生まれは1760年東京都墨田区。平均寿命が40~50歳という時代に数え年で90まで生き、とにかく「納得のいく絵を描けるようになりたい」という情熱で絵をかき続け、生涯現役を貫いた。

北斎は幼い頃から暇さえあれば絵を描く子供だった。14~15歳で版木彫の工房に入門し、将来を期待されるまでになっていたが、19歳で突然彫師を辞め、当時の人気浮世絵師勝川春章かつかわしゅんしょうに入門する。

入門後わずか1年で絵師としてデビュー。その後、黄表紙きびょうし(大人向けの漫画のような読み物)や洒落本しゃれぼん(遊郭などの遊所での遊びについて書かれた通俗小説)などの挿絵の分野に進出した。

ところが、それから2年後の1782年、日本の近世では最大の飢饉とされる「天明の大飢饉(1782-1787)」に遭うこととなる。更にはそれに続き、悪化の一途を辿っていた幕府の財政を立て直すための「寛政の改革(1787-1793)」が始まる。「寛政の改革」では、庶民にも倹約が徹底されて出版の取り締まりまでが行われるようになった。その過程で黄表紙洒落本発売禁止となってしまう。

それでも入門していた勝川派ではひたすら修行を重ね、15年間200点以上もの錦絵にしきえ(木版画浮世絵)を残すことになる。

その後は、師である勝川春章が没した後の1794年頃、30代半ばで勝川派を抜けてしまった。

この後は、商業的な浮世絵を一旦離れ、今度は琳派りんぱ(屏風や工芸品等の装飾画に利用された、金箔などを使用する絢爛豪華な画風を特徴とした大和絵の一派)に入門。活動の中心を浮世絵から狂歌絵本きょうかえほん(「狂歌」は社会風刺、滑稽を盛り込んだ短歌の一種)へと移していくことになる。

そしてこの期間に、自由闊達で大胆な構図を特徴とする自らの画風が確立されていった。

またこの頃、美人画制作にも取り組み、その人気は高まりを見せていく。

しかし、ここもわずか数年で後進に道を譲り、自らは以後どこの流派にも属さず、独自の道を歩んで行くことになる。

文化年間(1804-1818)に入った40代半ばの頃からは、読本よみほん(江戸時代後期、寛政の改革以降に流行した伝奇小説集。文章中心の読み物であったがやがて挿絵も重要となった)の挿絵を数多く手掛けるようになる。画号(ペンネーム)を「葛飾北斎」としたのはこの頃。

寛政の改革」で統制を受けた黄表紙洒落本に対し、この読本に関しては規制がゆるく、みるみる人気となっていった。中でも「南総里見八犬伝」で知られる人気戯作者、滝沢馬琴たきざわばきんとの黄金コンビは、江戸に大ブームを巻き起こした。

その頃の読本挿絵の作品が以下である。今の時代の週刊少年漫画に出ていても全く違和感がないほどの出来。200年以上も前にすでにこの完成度とは本当に驚くばかりだ。

すみだ北斎美術館展示物(撮影許可あり)

発売直後から大ベストセラーとなった絵手本「北斎漫画」の時代

人気となった北斎には日ごとに門人が増え、北斎はその対応に追われることになった。そこで北斎は絵手本えでほんである「北斎漫画」を制作することになる。

絵手本とは、絵の描き方を習うために書かれた絵のお手本のこと。人物のポーズ表情動植物妖怪など、ありとあらゆるものの描き方が指南されている「北斎漫画」は、4,000近くにも及ぶ様々な図を収録しており、そのシリーズは北斎の死後1878年まで続き、全15編にまで及んだ。

1814年に初編が刊行されると、これが発売直後から大ヒット鎖国時代(日本は当時、中国とオランダとの貿易は行っていたため、実際には制限貿易だった)であるにも関わらず欧州にまで紹介された。

すみだ北斎美術館展示物(撮影許可あり)

そして更に驚愕したのが、「北斎漫画」の刊行前、1812年と1814年に刊行された絵手本略画早指南りゃくがはやおしえ」にある以下の図。
○、△、□などの単純な形を用いることによって、あらゆるものの骨格は描写可能であることを、北斎はすでにこの時代に示していたのである!

すみだ北斎美術館展示物(撮影許可あり)

対象とするものの形を、単純な図形の組み合わせで捉えるのを世界で最初に示したのは、近代絵画の父ポール・セザンヌ(1839-1906)」ではなかったのか?

そしてそれがヒントとなってパブロ・ピカソ(1881-1973)やジョルジュ・ブラック(1881-1973)のキュビズムが誕生したのではなかったのか?

先にも記載の通り「略画早指南」の刊行は1812年と1814年だから、明らかにセザンヌが生まれる前なのである。

「すみだ北斎美術館」の公式HPにある解説によると、どうやらこのアイデアは、天明7年(1787)刊、森島中良もりしまちゅうりょうの「紅毛雑話こうもうざつわ」で紹介されたオランダの画法がもとになっていると言われているようである。しかしながら「紅毛雑話」にあるのは以下のような絵であるから、北斎自身による大幅な進展・応用が少なからずあったと考えてよいと思われる。

「紅毛雑話(巻四)」より
画像引用元:Wikimedia Commons

そして、オランダの命令で日本に来た、あの「シーボルト事件」で有名なシーボルト(1796-1866)が、帰国後に出版した自著「Nippon」の挿図に「北斎漫画」の図柄を用いており、当時のヨーロッパに紹介をしている。

更には1867年のパリ万博博覧会浮世絵が紹介され、これをきっかけにヨーロッパで「ジャポニズム」が流行し、ヨーロッパの芸術家、特にモネ(1840-1926)やゴッホ(1853-1890)など印象派の画家に多大なる影響を与え、印象派誕生のきっかけにまでなったのである。

あの「冨嶽三十六景」は70歳を過ぎてからの大ヒット

そして還暦を過ぎた頃、画業は順調であった北斎であるが、私生活では、そしてしばらく後に後妻も亡くし、同時期に脳卒中も患うことになる。そのためか、この時期に江戸を離れ、神奈川県横須賀市の浦賀にいたこともあった。

しかしながら北斎は、そのような災難続きの状況を乗り越え、70歳を過ぎてからあの代表作「冨嶽三十六景」を刊行(1831年)したのである。

特に、赤富士が描かれた「凱風快晴がいふうかいせい」、大きな波と富士が描かれている「神奈川沖浪裏かながわおきなみうら」はあまりにも有名。
なんと浮世絵に風景画というジャンルを確立させたのは、北斎だったのである。

冨嶽三十六景「凱風快晴」
画像引用元:Wikimedia Commons

そしてこの北斎の「冨嶽三十六景」の斬新さに触発されたのか、その後まもなく歌川広重うたがわひろしげ(1797-1858)が「東海道五拾三次とうかいどうごじゅうさんつぎ」を発表(1833年)した。

更に晩年70代半ばに「富嶽百景」を刊行

冨嶽三十六景」の大ヒット後も創作意欲が衰えなかった北斎は、70代半ばで「富嶽百景ふがくひゃっけい」を刊行(1834年)。

色鮮やかな「冨嶽三十六景」に対し、「富嶽百景」は単色で刷られた版本となっており、ここでも数多くの富士山が描かれている。

その後の最晩年は、肉筆画へと制作物をシフト。1833年に始まった「天保の大飢饉」の影響により錦絵発注が激減したことも関係していると考えられている。

肉筆画においても富士を描き続けた北斎。その画風はより重厚感のあるものへと更に変化していった。

最後は、1849年4月18日早朝、浅草の仮宅にて静かに息を引き取った

解説展示:錦絵(木版画浮世絵)ができるまで

北斎の作品展示だけでなく、この「すみだ北斎美術館」の常設展には、「錦絵ができるまで」という解説展示もあった。

北斎の最も有名な代表作の一つである「冨嶽三十六景」の一図「神奈川沖浪裏」が製作された過程が分かりやすく示されていた。

すみだ北斎美術館展示物(撮影許可あり)

この作品「多色刷りの木版画」な訳だが、改めてすごいと感じる。色ずれなどないのは勿論だが、空(そら)の微妙なグラデーションなど、版画とは思えないほど微妙で見事な表現である。絵師だけでなく、当時の彫師や摺師職人すりししょくにんの高い技術があって初めて成立する芸術作品だ。

以下は展示されていた版とそこから転写した絵。この過程を繰り返して錦絵は作られる。

すみだ北斎美術館展示物(撮影許可あり)

生涯とにかく絵を書き続け、様々なジャンルで活躍した「北斎」

北斎は旅に出る以外その生涯の殆どの期間、東京都墨田区周辺を住処すみかにしていたそうだが、家を片付けるのが面倒という理由で90回以上転居したと言われている。

また「葛飾北斎」という画号が最もよく知られているが、北斎は20歳でデビューしてから、その絵師としての環境や手掛ける作品が変わるたびに画号を変えており、その変更回数は30回以上にも及んでいる。
晩年75歳に手が届く頃には「画狂老人卍がきょうろうじんまんじ」という一風変わった画号を名乗った。代表作の一つ「富嶽百景」はこの頃の作品である。

絵師としてデビューしてから没するまで約70年間、役者絵、浮絵、読本挿絵、美人画、春画、鳥瞰図、団扇絵、花鳥画、妖怪画、肉筆画、絵手本、漫画、風景画など、ありとあらゆるジャンルに進出しては、人気作品を世に出し続けた北斎。画業生活で残した作品の総数は実に3万点を越えると言われている。

そして西洋画を含めありとあらゆる絵を熱心に研究し、様々な技法・構成要素を自分の作品に取り入れてはその表現力を高めていった。

若い頃もそして年老いてからも、いつの時代もその北斎の心の中には、ただひたすら「もっと絵をうまく描きたい」という情熱探求心が満ちあふれていた。

そしてその北斎ほとばしるような情熱は、およそ200年もの長い時を越え、今でも世界中の人々の心を動かし続けている

世界が認めた偉人「北斎」

最後に、北斎の偉業を世界が認めているという事例を一つ挙げてこの記事を終えることにする。

アメリカのフォトジャーナル誌「LIFE」が1998年に出版した「THE LIFE MILLENNIUM」にある「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人(The 100 Most Important Events and People of the Past 1,000 Years)」の中に、日本人で唯一選ばれたのは、この比類なき偉人「北斎」だけなのであった。

タイトルとURLをコピーしました