このところ、少子化、高齢化、そして人口減少が叫ばれ続けている日本。ここ20年くらいの人口推移は以下のようなグラフで示されています。
日本の人口推移 (2005-2024)
出典:総務省統計局データを元に筆者が作成
今回の記事では、さらに大きく時代を遡り、過去の日本の人口がどのように推移してきたのか、とくにこれから本格的に訪れると考えられる人口減少社会の参考となり得る時代が、かつて日本に存在したのか、という点に焦点をあてて見ていきたいと思います。
歴史人口学的に見た日本に関する四つの時代区分
まずここでは時代を大きく遡り、縄文時代から現在までの日本の人口推移について見ていきます。
あらかじめ付記しておきますが、本記事で扱う人口推移のベースとなる数字は、国勢調査などの記録が残る遥か前の時代が含まれるため、当然のことながら様々な推測を含んだ結果となっています。即ちそれらは色々な仮定を置いた上で算出された数字であるため、その妥当性や精度については様々な見解があると思われます。
また、歴史的資料などの調査が進むにつれて新たな史実や見解が生まれる可能性があり、過去起きたことの解釈は日々見直されていきます。
本記事では算出された数字やそこから推測される見解の信頼性を厳密に議論することを目的とはせず、大きな傾向を捉えることを主旨とすることをあらかじめご了承願います。
それでは本題に戻り、日本の人口推移についての話を進めて行きましょう。
一万年程前、縄文時代からの日本の人口推移をまとめると、以下の四つの時代に区分できることが知られています。
それぞれの時代の始めには新たな人口増加のトレンドが起こり、その後そのトレンドがしばらく続いた後、その増加傾向は鈍化し、やがて停滞・減少する局面が現れます。そしてその停滞・減少局面のあとには次の時代区分の人口増加が始まるといった具合です。
日本の社会はこれまで、このサイクルを4回繰り返していると考えられています。
【日本の人口推移に関する4つの時代区分】(鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」記載データを元に筆者が整理)
区分①:紀元前6000年頃~紀元前1000年頃(縄文時代初期頃から縄文時代末期頃まで)
区分①の人口推移:紀元前6000年頃~紀元前2300年頃の人口増加トレンド→その後紀元前1000年頃まで停滞・減少
区分②:紀元前1000年頃~1200年頃(縄文時代末期頃から平安時代末期頃まで)
区分②の人口推移:紀元前1000年頃~800年頃までの人口増加トレンド→その後1200年頃まで停滞状況
区分③:1200年頃~1870年頃(平安時代末期頃から江戸時代末期頃まで)
区分③の人口推移:1200年頃~1600年頃は全国的な人口調査が行われていなかったため日本全国の人口動態は不明。1600年頃~1720年頃の人口増加トレンド→その後1870年頃まで停滞・減少状況
区分④:1870年頃~現在(江戸時代末期頃から現在まで)
区分④の人口推移:1870年頃~2007年頃までの人口増加トレンド→その後現在までの停滞・減少状況
次の章では、まず区分①の内容から見ていきたいと思います。
区分①:縄文時代における人口増加と人口停滞・減少要因
【区分①における人口増加要因】
およそ一万年程前、日本列島の年平均気温は現在より約2℃低かったと考えられています。
当時の花粉などの分析から、およそ9000年前頃、本州の大部分は冷温帯落葉広葉樹林(ブナなど)で覆われていたとみられています。より温暖で降水量の多い地域に分布する照葉樹林(シイ、カシなど)は、房総以西の沿岸部と九州に限られていました。
しかしその後気候の温暖化が始まり、6000年前頃には今よりも平均気温は1℃以上高くなり、東日本では暖温帯落葉樹林(クリ、コナラなど)、西日本では照葉樹林が広がりました。
どんぐりやナッツなどの堅果類が基本的なカロリー源であった縄文時代における人口増加は、このような気候の変化によって、より多くの木の実を生産する樹林帯に変化していったことと密接に関係していると理解されています。
木の実の生産量は、照葉樹林よりも落葉樹林の方が圧倒的に多く、とくに暖温帯樹林で多いとされており、縄文中期にこれらの樹林が発達した関東・中部地方は、とくに人口密度が高かったことが知られています。縄文時代には圧倒的多数の人口が東日本に分布していました。
狩猟採集生活をしていた縄文時代の人口増加は、このような自然からの恵みに支えられたものでした。

【区分①における人口停滞・減少要因】
縄文時代の中期には、日本列島の人口は当時の環境において維持可能と考えられる上限にすでに到達していたようです。
やがて縄文時代も後期になると、気候が再び寒冷化することになります。暖温帯落葉樹林によって支えられていた東日本の人口密度はとくに影響を受け大きく低下していきます。栄養不良の状態は、免疫力を低下させ、疫病の流行をもたらすことにもなったのでしょう。その結果、とくに東日本の人口は激減してしまいました。
この時代の大きな人口減少は、その後、農耕社会を迎えるまで続くことになりました。
区分②:弥生時代から平安時代における人口増加と人口停滞要因
【区分②における人口増加要因】
紀元前10世紀頃、大陸から九州北部に稲作が伝わり、人々の生活は徐々に農耕生活へと変化をしていきました。やがて稲作の技術は、九州、四国、本州へと広がっていきます。
日本における人口分布は、前記の通り、縄文時代には東日本に集中していましたが、弥生時代には先に稲作が普及した西日本の人口が東日本を凌駕するまでに増加したと推測されています。
農耕生活への転換は、人口を維持する力を大幅に引き上げることとなった上、水田での作業は多くの労働力を必要としたため人口増加を加速させました。
農耕社会へ移行してからも、気候変化による温暖化と寒冷化が発生しますが、奈良時代に入ると再び気温上昇が始まり、稲作は進展し、それに伴う国家形成の発展はめざましい人口増加に結び付くことになります。

【区分②における人口停滞要因】
このように発展した農耕社会も8世紀を過ぎると成長力が鈍化してしまいます。10世紀以降には停滞し、限界を迎えることになりました。
人口成長を停滞させた要因は、以下のように考えられています。
1)耕地拡大と生産性上昇の頭打ち
2)気候悪化(干ばつ)
3)疫病(天然痘)
4)政治・経済力の衰退
4)については以下のような大きな社会的変化が起こりました。
大化の改新(645年)以降、農地の管理については律令制の下国家が管理する「公地公民制」がとられていました。奈良時代初期になると人口増もあり農地が不足し始め、新たな農地を開墾しなければならない状況となっていきます。その結果、奈良時代中期には、新たな農地を開墾した者にその耕作権の永年私財化を認める法令が発布(743年墾田永年私財法)されました。
これが基礎となって平安時代中期には、開発領主による墾田開発が盛んになり、私有化された土地(荘園)が増え、国家が管理する土地(公領)と併存する形の「荘園公領制」が成立していきます。
荘園が増えると公田(国家が所有する農地)から徴収できる税は減ることになり、国の経済力は弱まっていきました。中央集権的な律令政治を行う政府の統制力は弱くなり、とくに地方への影響力は衰えていきます。政府の管理が及ばなくなると、地方行政官の利権化が進んだり、その地域で力の強いものが勝手な行動をするようになり、私有地を巡る争いが増えたり、治安が悪化していきました。そしてこのような状況の中、自衛のために武器をもつ「武士」が登場することになるのです。
区分③:江戸時代における人口増加と人口停滞・減少要因
【区分③における人口増加要因】
土地を私有化して管理運営を行う荘園領主の意欲もやがて衰えていくと、自分の消費生活を維持する荘園年貢の確保に関心が向けられるようになります。年貢は現物か賦役であった時代、農業生産はそれ以上効率的である必要がなく、農民の生産意欲を刺激する要因も乏しくなりました。
やがて貨幣が導入され市場経済化が進むと、その状況が変化し始めます。一般農民にまでその影響が及ぶようになると、生産を増やすことに対する大きな動機付けとなっていきました。
集落も発展し成長するようになると、その消費需要をあてにした新たな生産目的が加わり、生産量拡大や生産効率向上のための活動が促され、農民が自立への道を模索するようになっていきます。
その結果、農業経営組織は、隷属農民の労働力に依存する名主経営から、家族労働力を主とした小農経営へと変化していくことになるのです。
この変化は、有配偶率が低かった隷属農民の減少へと繋がり、社会全体の有配偶率を高め、出生率の上昇へ結び付いていきました。
そして隷属農民や傍系親族を含む大規模世帯は、彼らの分離独立などによって小規模化していきます。この時代にはこのような世帯規模の大きな変化が起きたのでした。
この農業経営組織の変化は、豊臣秀吉、徳川家康の政策でも後押しされ、その後の社会基盤となっていきました。

【区分③における人口停滞・減少要因】
江戸時代の後半になると、小氷期に入り気候が極度に寒冷化することになります。冷夏によって米が不作となり、さらに年によっては害虫の発生や火山の噴火なども起こり、歴史的な大飢饉(享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉)が発生してしまいます。
また飢饉による栄養不足は、ここでも様々な疾病の蔓延を引き起こす原因の一つとなりました。
さらに人口が停滞した要因に挙げられるのが、都市化の進展です。都市部とその周辺地域は、その他の地域に比べて死亡率が高く、出生率が低い状況にありました。
都市部の過密状態は、火災や震災、伝染病の被害による死者を多数生み出してしまいました。また、低い有配偶率、短い有配偶率期間は、都市部の出生力を低下させました。
区分④:明治時代から現在における人口増加と人口停滞・減少要因
【区分④における人口増加要因】
19世紀になると、西洋医学による影響や経済発展などにより生活水準が上昇し、その後の明治期における人口成長の土台が作られました。
そして明治からの近代化・工業化の著しい進展は、人口を飛躍的に増加させることになります。

【区分④における人口停滞・減少要因】
その後日本の人口は、途中戦禍による減少要因がありながらも、現代まで基本的には増加基調で推移していきます。
しかしながら、女性の各年齢階級ごとの出生率を合計した合計特殊出生率を見てみると、第二次大戦後の1949年には4.54あったものが、1957年以後はほぼ2前後で推移。1975年には2を割り込み、1989年には近代統計史上最低となる1.57にまで低下。1998年には1.38まで下がり、世界的にも低水準に落ち込みました。
2008年についに頭打ちとなった人口は、死亡率が出生率を上回り、現在人口減少の状況にあるのは皆様ご存じの通りです。
望まれる新たな発展への変化
このように日本は現在4回目の人口停滞・減少社会を迎えています。
これまでの4つのサイクルに共通するのは、新しい人口増加のトレンドもやがては鈍化し、ついには停滞期を迎えるということです。
この4回目のサイクルにおける人口増加トレンドは明治期から顕著に現れるようになりましたが、その主要因は産業革命に端を発する近代化・工業化にあると考えられます。
しかしながらその近代化・工業化という名のエンジンも、今のこの成熟した日本社会においてはいよいよその力が衰えてきているようです。
それでは、現在の人口減少状況を抜け出し、次の新しいサイクルに入るための要素としては、一体どんなことが考えられるのでしょうか?
例えば、AIとロボット技術による製品製造の無人化、核融合の実用化によるエネルギー革命、大量生産大量消費社会から少量多品種循環型社会への移行、中央集権システムから分散型システムへの移行、またそれらを支える新たな金融システムの導入など、様々な可能性が議論されていると思います。
これからの社会がどのように変化していくのか、具体的な事象を予測するのは簡単ではないと思いますが、過去の歴史を振り返り長期的な視点で今の我々が過ごしている社会を眺めると、やはり現在の仕組みをただ継続するだけではこの停滞した状況を抜け出すのは難しくなっているように思われます。
新たな発展へと導く新たな変化、新たなビジョン、新たな体制が望まれるのも無理もないことなのでしょう。
いい投資先が見つからない余剰マネーを、現状システムの中の目先の利益のためではなく、もっと夢のある、次の新たな時代の上昇トレンドを生み出す可能性のあるものに振り分けていただきたいものですが、この変革が求められる状況下においても、日本がこれまで長い歴史を通じて培ってきた「調和」の精神だけは、決して忘れて欲しくないものです。
現在ある社会の衰退は、次の社会の始まりでもあるのです…。
出典及び参考資料
1) 鬼頭宏, 「人口から読む日本の歴史」, 講談社学術文庫, 2000
2) 弥生時代 – Wikipedia
3) 墾田永年私財法 – Wikipedia