今回は「近代資本主義」のルーツに関するお話です。
我々は今も尚、近代資本主義システムの真っ只中にいるわけですが、近代資本主義が発展し大規模な資本形成を行っている企業が多い国といえば、米国、英国、フランス、ドイツ、スイス、オランダ等が挙げられると思います。一方、同じヨーロッパでも、イタリア、スペイン、ギリシャ等では世界的に規模の大きい資産を形成している企業はやや少ないようです。
この違いは何に由来するものなのでしょうか?
一般的に普通に考えられている仮説としては次のようなものが挙げられます。
経済が活発化する社会においては通常まず商業が発達する。そしてその商人たちの「営利精神」は更なる営利精神を呼び覚まし、これが原動力となって商業を一層発展させていく。併せてこの営利精神は他の産業にも影響を及ぼし、他の様々な分野の産業を活性化し発達させる。これが続いていくとやがてその延長線上に高度化した近代資本主義が出現する。だから「営利精神」が旺盛で、それを妨げられることがない地域では資本主義が発達しやすく、そのような条件が整っていない地域ではこれが発展しにくくなる。
というものです。
しかしながら、ドイツの社会学者・政治学者であるマックス・ウェーバー(1864-1920)は、歴史上の事実はそうなっていないことを明らかにしたのでした。
画像引用元:マックス・ヴェーバー – Wikipedia
近代資本主義が最も発展を見せた地域とは?
彼の調査によれば、古くは中国、インド、古代ギリシャ、古代ローマ等では、この商業における「営利精神」を妨げるような倫理的規制はなく、自由に活動することが出来ていました。
しかしながら、そのようなところからは、簿記等の手段を活用し合理的且つ組織的に産業経営を行ってその利潤を追求するという近代資本主義的なるものは生まれなかったのです。
それでは、どのような地域で近代資本主義は最も発展を見せたのでしょうか?
マックス・ウェーバーが論文を発表した20世紀の初め、新聞や文献でも論議されることがあった様ですが、西欧における職業統計等から以下のことが確認されました。当時の近代的大商工企業における資本所有や経営的地位、高級労働に関わりを持つ上層の熟練労働者等においては、プロテスタントの比率が(総人口における比率と比べて)極めて大きかったということです。
更に詳細な調査によると、プロテスタントの中でも、特に教義が厳しく禁欲的であるとされる教派(カルヴァン派やピューリタン、その他)を信仰する人達が、最も高度な事業の発達や活動の成果と結びついていたということが分かりました。
これはつまり、暴利を貪ることは倫理的に最大の悪事であり、そのようなことを行っている大商人は最も敵視すべきであると考えていた人達の方が、より合理的に大きな資本形成を実現し近代資本主義を最も発展させていたということになります。
これは先述した「営利精神」によって資本主義が発展し近代化したという一般的な仮説とは正反対のことであり、大変驚くべきことです。
それでは何故そんなことが起きたのでしょうか?
マックス・ウェーバーがその答えを示していますので、以下で見ていきましょう。
ただその前に、彼が結論付けたことをより正しく理解するために、プロテスタント諸教派の誕生とそのプロテスタントがもたらした職業労働に対する意識の変化について、次の章で簡単に確認して行きたいと思います。
プロテスタントの誕生と職業労働に対する意識の変化
キリスト教にはどのような諸教派があるのか、我々日本人にとってはあまり馴染みがない、という方も多いかと思われますので、少しだけ簡単に特にマックス・ウェーバーが考えたことを理解する上で必要となる点について、初期プロテスタント諸教派に関する記載をしようと思います。
まずはプロテスタントの誕生から。これは皆さんご存じの通り、宗教改革以前からカトリック教会聖職者等の世俗化や堕落に対して信徒の不満が溜っていた状況があり、これらを背景として、1517年ドイツのマルティン・ルターは「95か条の論題」というカトリック教会の贖宥(しょくゆう)状※1販売を批判した文書を公開しました。
(※1:信徒の罪の償いを軽減する教会発行の証明書のこと。大聖堂建築のための費用等、教会のための資金を集める目的でこれを販売することがあった。)
これを契機に宗教改革が始まり、キリスト教に新たな宗派プロテスタント(「抗議する人」の意)が生まれます。
一方、前記ルターの宗教改革運動が始まった時とほぼ同時期、ほんの少し遅れてスイスでもフルドリッヒ・ツヴィングリ等により教会改革運動が始まりました。
更にその後これらの宗教改革運動はフランスにも影響を及ぼします。1534年フランスで檄文(げきぶん)事件(カトリックの教義を批判する文書がフランスの諸都市に張り出された事件)が起きるとプロテスタントへの弾圧が強化されたため、多数のプロテスタントが国外に逃亡しました。このとき神学者ジャン・カルヴァンはスイスに亡命し、前記ツヴィングリ等が開始した改革派に合流してスイス改革派教会の基礎を築くことになります。この改革派の教理を今日ではカルヴァン主義と呼んだりします。
このカルヴァン主義者はその後フランス(名称ユグノー)、オランダ、英国(名称ピューリタン)を始めとするヨーロッパ各地に広がり発展していくことになります。更に英国における宗教改革運動ではイングランド国教会からの分離を求めたプロテスタント分離派が、弾圧を逃れるため米国へと渡ることになり、その後米国でもプロテスタントが主流派となっていきます。
プロテスタントはこのような経緯で誕生したこともあり、基本的な考え方として、神と信徒を繋ぐ聖職者の言葉や人伝いで伝承されたものに重きを置かず、神の啓示が書かれた「聖書」のみを重要視して信徒は神と直接繋がり、全ての信徒が神の前では平等という立場を取ります。
その他、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントには色々と違いがあるのですが、マックス・ウェーバーの主張を理解する上で重要なのが、修道院制度に関わる違いです。
カトリックでは修道士が神に仕える生活を共同で行うための修道院があります。一方、プロテスタントでは一部の例外を除き修道院のような共同生活を行う場所はありません。プロテスタントでは信仰の基本的立場を信徒個人が神に向き合うものと考えるからです。
カトリックにおいては、信仰を守りながら世俗的生活を行うよりも、世俗の生活を止め、修道士として極めて質素で禁欲的な、神に仕える共同生活を行うことの方が尊いことであると考える訳ですが、プロテスタントでは、神によろこばれるために各人が世俗的生活を行う中で義務を遂行することが奨励されています。
これが意味するところは、カトリックでは世俗生活と禁欲生活がある程度分けられていた(世俗外的禁欲生活)のに対し、宗教改革後に誕生したプロテスタントにおいては、世俗生活の中に禁欲的要素が持ち込まれるようになった(世俗内的禁欲生活)ということです。
神に喜ばれる生活を行うためには何をすればよいのか?プロテスタントの人達が考えた最も尊重すべきことは、各人の世俗内的義務の遂行、つまり神から与えられた「職業(天職)※2」を日々こなすことでした。
(※2:ドイツ語でBeruf。神から与えられた使命という意を含む「職業」のこと。英語での近い言葉としては「calling」がある。)
このあたりまでは特にルターを中心とする信徒たちが進めてきたことですが、まだこの時点では、資本主義が大きく変革する状況にまでは至りませんでした。
本格的な資本主義の近代化は、次のカルヴァン派の思想が生み出された後に現れたのでした。
禁欲的プロテスタンティズムが近代資本主義を発展させることとなった経緯
前記神学者ジャン・カルヴァンは、特徴的な神学思想「予定説」を提唱しました。
この「予定説」とは「神の救済を受けられるかどうかは、現世における善行や努力によるものではなく、神によって予め決められている」とする考えのことです。
神は万事を知り尽くしているのだから、救済すべき者を予め定めていると考えた訳です。
そしてこの神による救済を受けられるかどうかの運命は、人間の現世における行いとは一切関係がなく、人間の行為によって変えることはできない、牧師や聖礼典でさえも彼を救うことはできないとまで考えるようになったのでした。
この教説によって信徒は「自分は神に選ばれているのか?」という疑問に直面することになり、その運命は現世の行いによって変えることはできないため、かつて見ることのなかった内面的孤独化の感情と耐え難い緊張を抱くことになります。
こうなると、カルヴァン派の信徒たちにとっては、自分が「神に選ばれた者」であるという確信が必要となってきます。
この確信を得るためには、一つには、自分は選ばれたものとして、全ての疑惑を悪魔の誘惑として斥け、確信が持てないのは信仰が不足しているからだ、と考えるようになります。
もう一つは、神から与えられた職業労働(天職)に打ち込む。各人がそれぞれの持ち場で神の教えを実践し、そのことによって神の栄光を増す。それこそが選ばれた者の存在理由である、と考えるようになったのでした。
これらの行為は神への信仰から生まれ、そしてその行為の正しさによってその信仰が神の働きによるものであることが改めて確認される。そしてこのような禁欲的行為を実践することによって、救いについての不安や緊張から解放されることが可能となったのでした。
こうして日常的な生活態度全体が、神の栄光を増すためのものとしてより一層合理化(計画化、組織化)されていくことになります。
中でも、神の栄光に寄与しない時間の浪費は最も避けるべきものとなりました。
そして「天職」を通じて得られる営利としての貨幣の獲得は「天職」における有能さの結果であって、物質的生活をよりよくするため、つまり享楽・快楽を目的に行うものではない限りにおいて、営利は人生の目的となる、とみなされるようになりました。
このようにして厳しい緊張からの解放を求めるようになった集団の内面的変化が原動力となって、それまで伝統的な性格を帯びていた資本主義は、生産性・収益性を重要視し、合理的(計画的、組織的)手法を用いた「近代資本主義」へと進展することになるのでした。
そしてその結果得られた富は、元々消費することが目的ではないために蓄積され、次の投資に回って更なる富を生み出すことになります。
このように合理的な産業経営を通じて発展した社会は、その後全く新しい資本主義社会のインフラやシステムを構築していくことになります。そしてその新しいシステムが出来上がると、今度は収益を出し続けなければ経営が継続できない状況となり、その圧力によって禁欲的な行動が求められるようになってしまうのです。
こうなると信仰は段々必要がなくなり薄れていくこととなる。金儲けが自己目的化され是認されて、拝金主義へと進んでいく。
マックス・ウェーバーの時代、アメリカ合衆国ではもう既に営利活動に対して宗教的・倫理的な意味合いは感じられなくなっていました。
禁欲精神の無くなった現代資本主義
現在特に先進国においては、前記のような厳しい宗教的教義に基づく精神は薄れてきてしまい、現代の資本主義は享楽や自己実現のための営利の追求へと変貌してしまったと思われます。
その結果、社会は不安定化し、解消する見込みのない格差、将来不安等の問題が顕在化してきています。
この状況をいかに改善していくのか、我々一人一人が自ら考え行動すべき時がいよいよ来ているように感じます。
まずその第一歩として、歴史から学べることを多くの人と共有できれば幸いです。
出典及び参考資料
1) マックス・ウェーバー, 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」, 岩波文庫(電子書籍版), 2012
2) 宗教改革 – Wikipedia
3) フルドリッヒ・ツヴィングリ – Wikipedia
4) ジャン・カルヴァン – Wikipedia
5) 修道院 – Wikipedia